諏訪WALK
岡谷市の玄関口JR岡谷駅

岡谷市 目 次

岡谷市は、長野県のほぼ中央に位置し、諏訪湖の西岸に面し、東には八ヶ岳連峰、遠くには富士山を望む、湖と四季を彩る山々に囲まれた風光明媚な都市です。また、諏訪湖唯一の排水口に臨み、ここより天竜川が発し、遠く浜松に達しています。
明治時代から昭和初期にかけて日本の近代化を支えた生糸の都「シルク岡谷」として世界にその名を馳せ、戦後はその産業基盤をもとに「東洋のスイス」と言われる精密工業都市として発展してきました。

 
温泉スタンド
岡谷市は近代スケート発祥の地として、オリンピックをはじめ国際大会へも数多く選手を送り出しています。世界トップクラスの設備を備えたスケート場もあり、アイスアリーナでは夏でもスケートが楽しめます。
市内には天然温泉も湧き出ており、この岡谷温泉をより多くの皆さんにご利用していただくために、温泉スタンドもあります。
また、岡谷市は人口あたりのうなぎの消費率が全国トップクラスで、古くからの歴史と伝統を受け継ぐ店が多く、「うなぎのまち」としても有名です。「寒の土用丑の日」の発祥地でもあります。



近代化産業遺産

岡谷市は、明治、大正、昭和の初めにかけて製糸業が飛躍的に発展し、「シルクの都 岡谷」と世界にその名をとどろかせるほど生糸生産の中心地として隆盛を極めた町です。最盛期の岡谷には、大小200を超える製糸工場と煙突が立ち並び、岡谷の製糸家により生産された生糸は、日本の1/3を占めるほどでした。岡谷には、そうした日本の国家の近代化を支えた15件の資産が、経済産業省から「近代化産業遺産」として認定されています。

鶴峯公園
川岸村(現在の岡谷市川岸)に、元片倉製糸の所有地で、昭和のはじめに公園化して鶴峯と名付けられた土地がありました。 昭和十一年秋、一帯の1.6ヘクタール余りの土地を川岸村に寄付し、村ではこれを記念して園内に三百株のつつじを植える事にしました。 そこで、つつじを埼玉県安行から購入したのだが、安行側の勘違いで貨車三台分のつつじが送られてきました。 そのつつじの量に村中は大騒ぎ。だが返品もできず、青年会や商業会、村民の有志が何日もかかって植え込みました。 つまり、この”勘違い”がつつじの名所を生んだのです。 戦後、鶴峯公園管理委員会を設置、本格的整備が進められ、中部日本一のつつじの名所となりました。 全山を埋め尽くすつつじは、三十種余り、三万株。実に見事で最盛期にはつつじ祭りが開かれる。
成田公園
大正6年、昭和天皇の立太子の記念に造られる。製糸工場の従業員の慰安の地としても利用された。製糸業発展に大きく貢献した黒沢鷹治郎の銅像がある。かつての製糸全盛の工場地帯に思いを馳せることができる。
旧林家住宅
この旧林家住宅は、明治の岡谷の製糸業草創期に、片倉、尾沢とともに開明社を組織して製糸技術の改良をはかり、我国の近代製糸業発展の基を築いた林国蔵の邸宅として、明治20年代から40年代初期に建てられました。
建物は、大きく主家と離れ(座敷と洋館)・土蔵からなり、洋式技術をとりいれながら、伝統様式に従って巧みに造られています。
離れ座敷の壁や天井に貼りめぐらされた金唐紙(壁紙)は明治の芸術産業の一つとして注目されていますが、当時のままに残されているのは当家だけであり、貴重な文化財として注目されています。
平成14年12月26日、西洋技術と伝統技術が巧みに融合した建物として、また意匠的に優れていることから、国の重要文化財に指定されました。
蚕霊供養塔
岡谷の製糸業関係者が、蚕糸業の発展を祈念するために昭和9年に照光寺に建立した供養塔。木造銅葺層、基壇積石14尺四方、高さ5尺の美濃石を使った堂塔建築様式。

丸山タンク
品質の良い生糸を製造するためには、良質の水が豊富に必要であった。明治中期以降、製糸工場の規模が拡大するにつれ、新屋敷などでは水が不足した。そこで「丸山製糸水道組合」が結成され、タンクは大正3年10月に竣工し、天竜川からポンプにて水を汲み上げ、塚間川以西の製糸業地帯へ給水を可能にした。
現在は、丘の上に直径12m、7.3m、3.1mの三重円筒型(壁の厚さ61cm)の巨大なレンガ積が残されている。
旧山一林組製糸事務所・守衛所
大正10年に建築された山一林組製糸の事務所・守衛所です。山一林組製糸は、明治12年に林瀬平によって創業して以来、発展を遂げて全国展開を図り、昭和2年では、県内5工場のほか、県外にも4工場を構えた大製糸工場です。
建物は、二階建て、桟瓦葺きで、二階軒に切妻破風を付け、壁は煉瓦タイル張り。一階は広い事務所と応接室、宿直室、二階は座敷と広い講堂があり、上げ窓を規則的に設けているので室内は明るく開放的。かつては、事務所南側には8棟の繰糸工場などが立ち並び、岡谷の製糸全盛を担った。また昭和2年には、工女たちによる歴史的な山一争議の舞台となった。
金上繭倉庫
岡谷に残る数少ない繭倉庫。建築年代は大正以前の古いもので、明治期と推定される。木造三階建、鉄板葺。入口の土戸が大きく、土蔵の延長としての特徴がある。繭倉現在は、金上(株)の倉庫として使用されている。
旧岡谷上水道集水溝
岡谷の製糸業が最盛期を迎え、飲料水や工業用水の需要が増えると上下水道建設の要望が高まった。そこで昭和2年塩嶺山麗の滝ノ沢に集水溝、導入菅、受水槽、分水槽が造られ、翌3年に給水が開始された。人々の生活を支えた集水溝跡として保存がされている。

旧岡谷市役所庁舎
昭和11年、製糸業によって発展を遂げた岡谷に市制が施行される時に、製糸家の尾澤福太郎によって寄贈された市役所庁舎です。昭和62年まで市役所として長く使用されてきましたが、現在は岡谷市消防庁舎として使用されています。
鉄筋コンクリート造りタイル貼り二階建てで、当時の役所の庁舎としては、最高の技術をもって造られた数少ない建物。一階は、カウンターがめぐる庁舎の姿をほぼ残し、二階の貴賓室、市長室などがそのまま現存しています。
旧片倉組本部事務所
明治43年に建築された片倉組の事務所。本社が東京に移転をした後も本部事務所として初代、二代兼太郎の活躍の拠点となる。木造二階建て、瓦葺き(現在は銅版葺きに改修)で一階内部の洋風玄関、事務所はそのままの姿を残し、二階には和風の大広間を持つ。明治時代に造られたレンガ造りの数少ない製糸工場事務所として貴重であり、現在は中央印刷(株)の事務所として活用されている。
丸中宮坂製糸所繭倉庫
昭和3年に創業し、今もなお諏訪式繰糸機を使った繰糸作業で操業する製糸工場。 繭倉が近代化産業遺産に認定された。
現在、市内で唯一現存する繭を保管するために使われている土蔵造りの倉庫です。明治時代に建てられた繭倉庫を昭和初期に移築しました。製糸時代にはどの製糸工場にも大きな繭倉庫が立ち並び生糸の原料となる繭の乾燥、貯蔵が行われていました。
岡谷の製糸家たちはフランスとイタリアから輸入された繰糸機を手本に、木や陶器を使って低価格で実用的な諏訪式繰糸機の開発を実現させました。宮坂製糸所は、昭和初年の不況、戦争による中断、昭和30年代からの製糸業の後退という時代の波を創意工夫と熱意で生き抜き、日本の製糸業を支えています。

上記以外にも下記の近代化産業遺産がありますが、現在も企業が使用していたり、改装中の為見学が出来ません。
市立岡谷蚕糸博物館所蔵資料 昭和39年に開館。「糸都岡谷」と世界にその名をとどろかせた岡谷の歴史と日本蚕糸業の偉業を総合的活、包括的に伝える博物館。フランス式繰糸機をはじめとする官営富岡製糸場資料、日本製糸業の発展御原動力となった諏訪市繰糸機、世界最高峰の技術とたたえられた多条繰糸機など、長野県民族文化財に指定されている442点などが近代化産業遺産に認定されています。
旧蚕糸試験場所蔵機械類 昭和22年、農林省により蚕糸試験場岡谷製糸試験所が岡谷に設けられた。製糸技術の研究と新しい蚕品種育成のため繭質判定用繰糸試験が行われ、日本における製糸技術研究の重要な拠点となった。車庫、門柱、宿舎などにわずかに創立されている。製糸機械類のうち多条繰糸機械等のが近代化産業遺産に認定された。
新増澤工業株式会社所蔵機械 前身は、多条繰糸機全盛時代に事業を展開した増沢工業。現在、日本に残る数少ない製糸機械メーカーとして操業中。製糸機械類をつくる機械の横フライス盤が近代化産業遺産に認定された。
旧山上宮坂製糸所事務所・工場棟・再繰工場棟・居宅 創業は明治7年、ざぐり製糸にはじまり、大正~昭和の全盛期と戦後の復活期に中規模の製糸工場として発展した。昭和31年に閉鎖された後は、製糸機械メーカーなどの工場に転用され現在に至る。居宅は明治26~27年頃、事務所は昭和2年の建築。


釜口水門

諏訪湖は天竜川の水源地としてまた天然のダム湖として、ここに貯えられた水を利用したり、ダムとして洪水を防ぐ大変大きな役目を果たしています。これをうまく利用することで、より多くの人々の生活を豊かにしたり、洪水などの災害から私たちの生命や財産をまもる働きをしてくれます。
この諏訪湖の水の力を有効に利用するために、諏訪湖から天竜川に流れ出す放流量を調節したり、諏訪湖の湖水位を調節する目的で建設されたのがこの釜口水門です。
このため釜口水門には、放流量を調節するための調節ゲートや諏訪湖と天竜川を魚が自由に行き来するための魚道(ぎょどう)、また漁船等の船が自由に行き来するための舟通し(ふなどおし)ゲートが作られています。

釜口水門
水門は2段式の6門ゲート(上段は6門、下段は3門)になっており、通常は上段ゲートを操作し越流放流を行っている。
釜口水門からの天竜川 舟通し水門
天竜川沿いの漁舟が諏訪湖に通行するための施設です。
諏訪湖と天竜川では水位差が約3.5mあるのでパナマ運河方式を採用しています。
2門のゲート間に漁舟を入れ、ゲート間の水の高さを諏訪湖または天竜川の水位に合わせ、漁舟が行き来します。
魚道
諏訪湖と天竜川の間を魚が行き来するための施設です。
諏訪湖と天竜川では水位差が約3.5mあるので、ゆるやかな流れとなるよう階段式魚道になっています。
魚道を流れる水量は、毎秒2㎥から4㎥、流れる水の速さは毎秒2m以下になるように作られています。

旧釜口水門(舟通し)
旧釜口水門は、昭和7年の大洪水を契機として、最大放流量約200㎥/sの機能で、昭和7年工費32万円で着工し、昭和11年に完成し、諏訪湖の治水利水に大きく役立ってきました。
水門の構造は、ストニー式で幅7.5m、高さ3.0mの鋼製ゲート7門を有した舟通し魚道も設置した総コンクリート製の当時とすればモダンな水門であり、その優雅な姿は多くの人々に愛されてきました。しかし、その後の大洪水による災害を防ぐために、計画の見直しを行い新しい水門が昭和63年7月完成しました。この為旧水門は、平成4年3月に取り壊され、半世紀に亘る役目を終わりました。
ここに残る舟通しも、昭和11年に完成し、諏訪湖と天竜川を往来する舟の通路として利用されてきました。舟通しの構造は、パナマ運河と同じ方式でゲートが2門あり、間に舟を入れ、水をため湖面と同じ高さにしてから上流のゲートを開けて舟を通し漁業などに利用されてきました。
ここに、諏訪湖の治水の要として、半世紀あまりの間活躍してきました旧水門を象徴する歴史的遺産として、舟通しと管理橋を末永く後世に残すものです。
釜口水門資料室
釜口水門管理棟の2階に資料室があります。資料室では湖の水位を調節している水門や、諏訪湖に関する資料なども展示。
小口太郎像
明治30年、旧湊村で生まれた小口太郎は、大正5年三高二部乙に入学。二部の代表クルーとして琵琶湖での漕艇練習に親しんだ。周航を楽しむのが二部クルーの慣例で、大正6年の三泊四日の周航の時、小口の作詞により「琵琶湖就航の歌」は生まれた。小口は卒業後東京帝大理学部物理学科に進み、「有線及び無線多重電信電話法」を発明。東大卒業後は同大学の航空研究所に入ったが病を得、26歳の若さで逝った。釜口水門の湊川の公園に、小口太郎の像と琵琶湖就航の歌の碑がある。
機関車
この機関車は、昭和7年から9年にわたる旧釜口水門建設工事の際、約20台のトロッコをけん引して、川岸三沢(旧養命酒付近)から水門まで約3kmの間を、釜口水門工事に必要な天竜川の土砂等を運搬した、当時としては最新鋭の機関車です。
新釜口水門の完成に伴ない、旧水門建設に貢献した機関車をここに展示するものです。

製造元:アメリカオハイオ州ヘイト・ルート・ヒース社
ガソリン4気筒水冷エンジン
購入年月:大正13年(1924)



岡谷市の湧水

小野田湧水
小野田湧水は、古代から岡谷村、成田町、二本松一帯丘陵地の地下水が、小野田地籍に湧出したもので、明治、大正、昭和の永きにわたり、地域住民の生活用水として利用されてきました。地域住民有志は、石祠を設置し守護水神として祭祀を行い、万延元年(1860)以降は、小和田水神講を組織し、当家制度により守護してまいりました。
鳴沢清水
石舟観音堂の奥に水神が祀られていて、参道脇で飲むことが出来ます。
長命水
平成7年、林野庁認定「水源の森百選」にも選ばれた横川山。岡谷市の貴重な水源となっていて、岡谷市の水道水の約63%を占めている。横川山運営委員会が管理している場所に、豊富に湧き出ている。
山の神水道
小坂観音院の参道入り口近くにあります。水源地は、中央高速道路の高架下を行くと山之神水道水源地があります。山の神水道組合が管理しています。


龍光山観音院(小坂観音院)

湊小坂地区の諏訪湖を見下ろす丘に建つ龍光山観音院は、室町時代の嘉禎年間造営、江戸初期に諏訪頼水ら藩主の寄進を受けて改修が行われたとの記録が残る寺。柏槙の大木は、弘法大師の手植えと伝えられている。

 
参道
秘仏の本尊は魚篭の上に安置された十一面観音で、大昔漁師の網にかかって諏訪湖から引き上げられたとの伝承があるが、後の調査で室町後期の作であることが判明した。
境内には多くの石造物とともに、諏訪御料人であった由布姫の墓石(供養塔)もある。諏訪頼重の娘で武田信玄の側室となり、武田勝頼を生んだ後、諏訪に戻って生涯を閉じたと伝えられ、観音沖には、信玄の以外を納めた石棺が沈められたとの説もある。







観音堂(本堂)
詳細な資料は残っていませんが、嘉禎四年(1238)の古文書には名前が記録されているので、それ以前の古くから堂宇の建立は行われていたと思われます。江戸時代・寛永二十一年(1644)には諏訪出雲守源忠澄(後の二代諏訪忠恒)により修造され、正徳五年(1715)諏訪安藝守忠虎(四代)により造営された記録(棟札)があります。
柏槙の大樹
弘法大師・空海が衆生済度のために当院を訪れ、その際にお手植えされたと伝えられています。樹齢は1200年以上と推定されています。
由布姫の供養塔
由布姫は、小説風林火山(井上靖著)の中での呼称であり、実名・本名はわかりません。(諏訪御寮人・湖衣姫などとも呼称されています。)
この姫は、諏訪頼重の娘で、武田勝頼の母にあたり、当院で療養していたと描かれてえられているため、昭和38年(1963)に供養塔を建立し毎年5月3日に供養祭を厳修しています。また、諏訪頼満が大壇那であるご本尊もあわせてご開帳しております。
観音院からの風景


花岡城址

本丸跡、二の丸跡、その間に空堀があり、自然の要害を利用して構築され、五陵閣形式となっており、土塁があり、中世の城址を知る貴重な史跡である。

 
花岡城址からの諏訪湖と八ヶ岳
戦国時代には伊那口へのおさえであり、天文年間には武田氏の支配であったと伝えている。
鎌倉時代の山城として、主郭は、38mX20mの楕円形で、周囲に土塁が築かれています。
二の郭は、40mX20mで周囲を低い土塁で囲んでいます。主郭下と二の郭間に空掘・出丸もあります。








 
主郭 二の郭


















小坂城址

小坂城は一名桜城ともいいい、小坂氏の居城であった。小坂氏は神(みわ)氏の支族で、上社大祝敦光の子敦忠をその祖とし、早くから小坂郷の地頭として小坂殿とも呼ばれていた。

 
小坂城跡
小坂城は上社に内乱のあった文明年中にはすでに築城されていて、天正10年(1582)武田氏滅亡後に廃城になったと思われる。城主の居館は、城の南麓にあって殿屋敷の地名を残し、また近くにある御頭屋敷という地名も、小坂氏が上社の社務を勤めた両頭奉行であったことを示している。このほか、桜垣外、城山日向、火灯山等の小字名がのこっている。小坂城跡は往時の姿をよく残していたが、中央自動車道の通過地に当たったため、その大部分が消滅した。
現在の小坂城址は、荒れ果てており主郭に行くのは困難な状況になっています。




峰畑城址

峰畑城は、本格的な山城でなく、城主の居館に接続する土地の一部を城として築いたもので、戦国時代にはこのような城塞を掻き上げとか砦と言いました。

 
峰畑城居館跡
主郭は御社宮司社の道を挟んで向い側、天竜川を見下ろす高台にあります。
城主は諏訪五十騎の1人、地頭駒沢新右衛門であった。城の遺構としては一条の空堀を残しているだけです。











 
峰畑城址 峰畑城址からの風景


















高尾城址

標高1,013mの頂上に構築された山城で、規模が大きい割合に形式が単純で、鎌倉時代の築城と考えられている。

 
高尾城址登山口
本丸の跡は地ならしをされたのみであるが、空堀があり、北側には底なし井戸と呼ばれる堀井戸があった。
また、南東山麓には城主三沢対島守の居館跡と云われる所もあります。











 
女高尾山頂上 高尾城址からの風景


















小井川賀茂神社

小井川字金山に鎮座し、上賀茂社とも言われています。
祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)・誉多別命(ほんだわけのみこと)となっています。


 
小井川賀茂神社 小井川賀茂神社

















小井川賀茂神社の創立は不詳ですが、往古京都市上賀茂の賀茂別雷神社(上賀茂神社)の御祭神『賀茂別雷神社』勧請し奉りしものである。
創祀当時奉斎の御霊代と云われる自然石を境内に祀り、叶石と称して、諸願成就の崇拝の対象となっている。
殊に、日清日露戦争に当区より出征さられし区民に戦死者が皆無であったことから、後の各戦役に於いて、武運長久の祈願者、又参拝者数多く、国威宣揚武運長久健勝祈願の参拝者は、近県及び四隣に及びました。
諏訪地方の総氏神様であります諏訪大社とは密接な関係にあり、諏訪大社摂末社の一つに列せられた記録も見受けられる。


舩魂神社

舩魂神社は諏訪大社の御分社として祭神 建御名方命と天孫降臨の時道開きをつとめた猿田彦命並びに諏訪湖での漁の安全を願い水を治める宗像明神を合祀した神社です。

 
舩魂神社 舩魂神社のしだれ桜と本殿

















鎌倉初期には『ヲタイニ鎮守アリ』と記述された文献が残っていて、既にその存在が知れ渡っていた古社です。また、高島藩主奥方が産湯として使用された湯立釜があり、安産の神様として遠近に知られ、いまでも安産祈願に底抜けの柄杓がが奉納される神社でもあります。
寛政元年(1789年)に上諏訪大明神末社舩魂大明神として建替え遷宮をした宝殿は、正面中央に諏訪大社上社の神紋が彫刻されていて、上社の流れを汲む由緒ある立派な造りでした。
平成18年7月の豪雨で発生した土石流により本殿、玉垣、鳥居、幟棹、石灯籠、樹木等が一瞬にして押し流され壊滅する被害をうけた。再建にあたり諏訪大社上社本宮西御宝殿を譲り受け、当神社の本殿として移築し併せて鳥居等も再建しました。


今井十五社神社

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)・御子神13神を祀る。

 
今井十五社神社
津島社本殿は、間口80cmの規模の一間社流造、杮葺の社殿で軒唐破風を付けている。建立は1929年、大工棟梁は小林官司朗である。年代は新しいが、母屋に二手先の組物を用い、木鼻は獏と唐獅子、紅梁は松と鶴の浮き彫り、紅梁上に目抜き龍の彫刻を付け、縁下は四手先の腰組とするなど、幕末の伝統様式をよく継承している。

舞屋は、懸造の間口柱間四間(6m)、奥行同三間(3.6m)の萱葺寄棟造の建物である。1801年(享和元年)の建立とされ、当初の舞屋の外回りは格子戸で開放的であった。明治以降に両脇に下屋を設け、板壁などで囲んで社務所として使われ改造されているが、諏訪大社系の古い舞屋の形式を受け継いでいる点で貴重である。

 
今井十五社境内社津島社本殿 今井十五社舞屋

















洩矢神社

諏訪大明神絵詞などの伝承によれば洩矢神は古来州羽(諏訪)地方を統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。
洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。

 
洩矢神社 洩矢神社

















照光寺

「延喜式」初見の岡屋牧にゆかりの古寺院ありとされる古刹である。秘仏薬師如来像には白鳳3年(675年) の銘がある。

 
照光寺
山寺地籍には鳴沢から引水した鎌倉時代と判定される遺構等が発見されています。応永2年(1395年)下社神宮寺宝珠院の憲明法印が中興。文明年間(1469-1486)に今井四郎兼平の末孫今井兵部兼貫が堂宇を再建した。
享徳元年(1425年)紀州金剛峯寺末寺となり、諏訪下社の別当寺である神宮寺一等末寺であった。
明暦2年(1656年)頃、山寺から現在地に移る。明和3年(1766年)から二度消失し、現在の本堂は第18世法印清源が寛政5年(1793年)に建立。
明治の廃仏毀釈で神宮寺が廃寺となったため、千手観音・仁王像などが照光寺に移された。明治6年(1873年)4月、境内 に岡谷小学校の前身である岡谷学校が設置された。明治44年、大覚寺直末より現在の智積院に転派する。


 
照光寺山門 照光寺本堂


















岡谷市の社寺

平福寺
新儀真言宗智山派弥林山平福寺の創建は古く、弘法大使の密教を擁護する道場であった。南北朝時代から戦国時代にかけては諏訪大社春宮の別当寺でもあった。織田信長に焼かれた後、江戸時代に横河川左岸より現在地に移転。日にちを決めて願い事をすれば叶うという「おひぎりさま」として信仰を集める日限地蔵尊が知られている。「おひぎりさま」は、太平洋戦争以来途絶えていたが、昭和50年に復活。諏訪百番札所西15番。現在の本堂は昭和16年の全面改修時に建てられたもの。
尼堂墓地
永田徳本は三河国生まれ、貧しい庶民の救済に心を砕き、医聖と仰がれた。らい病の研究と薬草の権威として、優れた見識を発揮し、名前は現在、張り薬や塗り薬のブランド名として浸透している。東堀尼堂に暮らし118歳の大往生だったと伝えられている。神宮寺石で作られた徳本の藍塔に乾室徳本庵主と刻印がある。藍塔の屋根一面に凹凸の穴があいているのは、この石の粉を煎じて飲めば、病が治ると信じられたからで、同じく藍塔内の小石はいぼを取るといわれ、いぼが消えたら意志を倍にして返すという伝承がある。
東堀正八幡宮
鎌倉時代の初期には、すでに当時の記録に上八幡とその名が残されていた古社。祭神は誉田別尊で、後に醍醐天皇の第八子宗良親王を合祀した。南朝方を中心的に支えた諏訪氏の招きによって当地に入った宗良親王は、ここを御座所とした。御座所は柴でしつらえられたといわれ、柴宮の通称の由来を示している。拝殿は諏訪大社系の神社の様式を示し、建立は1766年。大隈流の彫刻の技法も優秀である。
出早雄小萩神社
出早雄神社は古くより諏訪神社下社の摂社で、西山田三区(横川・中村・中屋)の産土神として鎮座していた。昭和35年(1960)、小萩団地造成のため、小萩神社を遷座し出早雄神社と合祀、出早雄小萩神社となった。祭神は建御名方命の二男、出早雄命と八男興波岐命。ハンノキ・ヤチダモの群集地に、オオモミジ、スギ、ヒノキなどを植生した林床は、市内社寺叢の中でも最も保存状態がよく、紅葉の名所として知られる一方、春のカタクリ・ニリンソウ・アズマイチゲ等も訪れる人々の目を楽しませてくれ、長野県自然百選に選ばれている。
六地蔵さま
六道能化のお地蔵様は、六道をさまよう全ての衆生をお救い下さいます。
六道とは、つぎの六つの世界のことを言います。
地獄道:他の命をそまつにしたり、奪ったりした人が落ちる世界。
餓鬼道:自分の利益ばかりを優先し、それによる人の不幸を顧みなかった人が落ちていく世界。
畜生道:動物のように、浅ましく欲に任せて生きた人が落ちていく世界。
修羅道:他人をうち負かすことばかり考えて、むやみな戦いに生きた人が落ちていく世界。
人間道:生死の迷いに流されている世界。
天道:他人を見下して生きた人が落ちていく世界。
地獄の責め苦を代わりに受けて、飢えに苦しむ餓鬼を救い、あわれな畜生をみちびき給い、わめき争う阿修羅をさとす、生死に迷う人間を助け、清浄世界の天人を度す、六道の迷いの世界に落ちた人々を救ってくださるお地蔵様です。
駒沢御社宮司社
この社地には、双体の道祖神とこれと並んで蚕玉(こだま)神があり、社前に2個の力石があります。蚕玉神は繭形に彫られた碑面に馬鳴菩薩が陽刻してあります。馬鳴菩薩は右手に桑の葉、左手に繭玉らしいものを盛った器を持ち、その上の空間には蛾が彫られています。明治11年(1878)の建立で、養蚕が盛んになってきたころの時代相を表すものです。
2個の力石は、1つは26貫(98kg)あり、もう1つは23貫(86kg)です。両石とも、目方と的場組という組名が刻まれています。


広畑遺跡

高尾山麓一帯は、縄文中期の一大遺跡である。付近の白山権現の境内より湧出する豊富な水、背後の山や下方を流れる天竜川は、狩猟や漁労に適し、また日当たりの良い南向きの緩やかな傾斜地であることなど、縄文人の生活舞台として最適の場所であった。

 
広畑遺跡
昭和26年(1951)の川岸村誌編纂事業の一環として行われた調査の時には、直径5mほどの竪穴住居跡一ヶ所が発掘されました。この住居跡はその後広畑遺跡保存会によって、上屋を復元し保存されています。
この住居跡内には方形の石囲炉跡と埋甕1個が完存し、4個の完全な土器(縄文時代中期)をはじめ、打製石斧・石鏃などが発見されました。
されに昭和48年(1973)の遺跡範囲確認調査では、14棟の住居跡が発見され、多数の遺物と住居跡を包蔵する大集落遺跡であることがわかりました。




唐櫃石古墳

唐櫃石古墳(かろうといしこふん)の墳形は直径12mほどで、その周りに周溝が掘られている円墳で、墳丘正面の石積みが特徴です。
石室は奥行き5.7m、幅1.7mの横穴式石室で、石室内にはベンガラで赤く彩色してある古墳です。

 
唐櫃石古墳
唐櫃石古墳が知られるようになったのは、古墳内にヒカリゴケ自生していることが見つかってからです。
準絶滅危惧であるヒカリゴケは、環境の変化にとても弱く、自然環境が影響を受けると簡単に消失してしまいます。











岡谷市の美術館・博物館

イルフ童画館
「子どもの心にふれる絵」の創造を目指して、自ら『童画』という言葉を生み出し、大正から昭和にかけて童画、版画、刊本作品、玩具やトランプのデザインなど様々な芸術分野に活躍し、いつも探求心をもって生涯挑戦を続けてきた、童画家武井武雄の美術館です。
開館時間:9:00~18:00
休館日:木曜日、12月31日~1月1日
入館料:¥800(小学生¥200、中高校生¥400)、諏訪6市町村在住又は在学の 小・中学生及び岡谷市在住又は在学の高校生は無料で入館できます。
住所:岡谷市中央町2-2-1
☎:0266-24-3319
岡谷美術考古館
天然の美と幸を求めて人間が岡谷の地に移り住んだのは、1万年もの昔でした。
これら原始、古代の生活跡が岡谷市内から180ヶ所近く見つけられています。
全国的に知られる梨久保、海戸、庄の畑などありますが、海戸遺跡は縄文時代から古墳時代に至るまでの大集落で、顔面把手付土器(国指定重要文化財)などが発見されています。
岡谷市出身で、渡仏してブールデルに師事し、昭和初期に日本彫刻家協会を結成してリーダーとなった武井直也をはじめ、郷土出身の優れた芸術家の作品を所蔵しています。
また、「童画」の生みの親としても知られる武井武雄の作品展示コーナーもあります。
開館時間:10:00~19:00
休館日:水曜日、祝日の翌日、年末年始
入館料:¥350(小人¥150)
住所:岡谷市中央町1-9-8
☎:0266-22-5854
岡谷蚕糸博物館
昭和39年に開館。「糸都岡谷」と世界にその名をとどろかせた岡谷の歴史と日本蚕糸業の偉業を総合的活、包括的に伝える博物館。フランス式繰糸機をはじめとする官営富岡製糸場資料、日本製糸業の発展御原動力となった諏訪市繰糸機、世界最高峰の技術とたたえられた多条繰糸機など、長野県民族文化財に指定されている442点などが近代化産業遺産に認定されています。
開館時間:9:00~17:00
休館日:水曜日、祝日の翌日、12月29日~1月3日
入館料:¥500(中・高校生¥300、小学生¥150)
住所:岡谷市郷田1-4-8
☎:0266-23-3489
小さな絵本美術館
小さな絵本美術館は、絵本作家の「さとうわきこ」さんが主宰する美術館で、岡谷本館、八ヶ岳館があります。岡谷本館は90年11月、諏訪湖近くのりんご園の中に建てられました。
八ヶ岳館は97年7月にオープンした分館です。ゆったりしたスペースと八ヶ岳の雄大な自然も魅力です。
国内外の絵本原画、絵本画家による1枚絵など、約400点を所蔵し、その1部を常設展示として公開しています。イベントや企画展なども行われています。
またヨーロッパの古い絵本も収集展示しています。
開館時間:10:00~17:00
休館日:火曜日、12月24日~3月末
入館料:¥700(小学生¥200、中高生¥300)、八ヶ岳館共通チケット¥1,100(大人のみ)
住所:岡谷市長地権現4-6-13
☎:0266-28-9877
御諏訪太鼓会館
昔、人類は太鼓で言葉をしゃべり、そのリズムは伝達信号として生活上必須の道具でした。
そして今、世界各国にそれぞれ特徴ある太鼓文化を興し連綿と息づき、現代に生きています。
日本をはじめ中国、タイ、シンガポールなどアジア各国、アメリカ、カナダ、イタリア、フランスなど欧米諸国など世界80ヶ国以上から約7000点の太鼓を取り揃えています。
ここ、世界の太鼓博物館では、ただ展示されている太鼓を見るだけでなく、太鼓道場で実際に太鼓を打つ体験ができ、また太鼓作りの工場も併設されていますので、太鼓を作る所から見ることができます。
開館時間:10:00~16:00
休館日:土日祝日
入館料:¥350(中学生以下¥300)
住所:岡谷市神明2-5-16
☎:0266-23-6146


風景

間下十五社御柱祭 間下十五社御柱祭 横河川桜並木 天竜川桜並木

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